「リズム」藤田竜生 著 1976年10月
「〜ヨコハマ、ナガサキ、ヨシツネ、ヒデヨシ…などの人名、をはじめ、七五調、七七調…と、日本語には二(四)拍子的な言葉や語調が確かに多い。だから日本語のリズムや日本人のリズムは二(四)拍子的であるという議論も成り立たないわけではないだろう。
しかし、もう少し視野を広げて、日本人の音感、という立場から考えた場合、わたしたち日本人の音に対する感受性と創造性は、リズム型であるというよりも、より旋律性であると言えるのではないか。
つまり、かれらの日本語が、あるいは面白半分にかれらの片言日本語をまねたりする場合のわたしたちの「外国的日本語」が、往々にしてシンコペーション、アウフタクト(上拍的、弱起)、三拍子的なリズミックな表情をとりやすいのは、彼らの三拍子感よりも、かれらがかれらのことばとまったく異質な日本語をまで、かれら流の強弱アクセントとマルカリート(音の一つ一つをはっきりと演奏すること)なリズム感で処理しがちなところから生まれる一つの結果ではなかろうか。
逆に日本人の英語が、単調な二拍的英語になりやすいとしたならば、それは日本人の二(四)拍子感よりも、レガート(スラ―;連続する二つの音を途切れさせず滑らかに続けて演奏する)な旋律的音感の方こそ原因があるのだろう。〜」
一丸となってバラバラに生きろ
わたしたちは、疲れ果てたホモ・サピエンスは待ちかねたかのように腰を落ち着けて永住し、数十万年におよぶ移動と周期的転居の生活を喜んで終わらせた、と単純に思い込んでいる。しかし、移動民が至るところで―ときにはその方が望ましい環境の下ですら―永続的な定住に頑強に抵抗したことを示す膨大な証拠がある。遊牧民や狩猟採集民が永続的な定住と戦ってきたのは、これを病気や国家支配と結びつけて捉えたからで、その考えは往々にして正しいかった。
植物を作物化したり動物を家畜化したりして<飼い馴らす>という意味の英語domesticateは、ふつうは直接目的語を取る動作動詞として理解されていて、たとえば「ホモ・サピエンスはイネを作物化し、‥‥ヒツジを家畜化した」などと使われる。しかしこれは、domesticateされる側の動物の能動的な行為主体性をみすごしている。 たとえば、どこまで私たちがイヌを家畜化したのか、あるいは、どこまでイヌがわたしたちを家畜化したのかは、明確ではない。またツバメやネズミ、ゾウムシ、ダニ、ナンキンムシなどの「片利共生生物」は、再定住キャンプに招かれたのではなく、人間のそばにいれば食べるものが手に入って居心地がいいからと、向こうから押しかけてきたものだ。さらに<飼い馴らし>の「最高責任者」であるホモ・サピエンスについてはどうだろう。<飼い馴らされた>のはむしろホモ・サピエンスの方ではないだろうか。耕作、植え付け、雑草取り、収穫、脱穀、製粉といったサイクルに縛りつけられているうえ(このすべてがお気に入りの穀物のためだ)、家畜の世話も毎日しなければならない。これは、誰が誰の召使いかという、ほとんど形而上学的な問いかけになる―少なくとも、食べるときまでは。
我々が何によって支配されているかを知ることによってはじめて、知性が働き始める
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