Per's response to 60s Rock? Psychedelic Cumbia

ペルー サイケデリック クンビア
―サイケデリックなギターリフ 1960年代のペルー・クンビアー
いわゆるクンビアは、コロンビアが原産だ。
後にリマのギタリスト達に好まれたクンビアは、ペルー・クンビア (ぺルビアンクンビア)または コスタル・クンビアと呼ばれ、アマゾニア・クンビアと発達した。
重要なことは、このユニークで信じられない流行が、英語圏がロックンロールの神話に取りつかれている間、ペルーでは、サイケデリックドラッグで盛り上がるコンサートがあり、社会的、政治的混乱の中、1960年代後半から80年代まで嵐のように吹き荒れた。
1900年代半ばまで、ペルーはサードワールドに属し、スペイン人の子孫と、海岸沿いに住むメティスト(混血の人たち)、アンデス山脈に住む多くの土着の人々ならびにアマゾンに住むひとで構成されていた。
 エンリケ・デガルド (デルガド意味はスリム)。彼は首都リマの生まれだが、彼の両親はアンデスからの移民だった。両親は二人ともミュージシャンで、父はチャランゴのアルペジオで家を満たし、母は伝統的アンデスの音楽ワイノのシンガーだった。
 ? (Pastoria Huaracina-Quisiera Olivdartre)
エンリケは両親の足跡を追うはずだったが、当時リマのラジオ番組を溢れさせていたモダンな都会音楽が好きだった。
 ? (Los Morochucos-Alejandrina)
クリオジャ (Criolla)はヨーロッパに起源を持つヨーロッパのワルツの一つだ。エンリケには、ヴァチュオソの才能が小年時代からあり、叔父からギターを貰うと クリオジャ のリフ、スケールを習い始めた。
若いエンリケは当時人気のあった音楽や、50年代にキューバからのトロピカル音楽、そして、ロックンロールと、色んなバンドと演奏した。
特にリマでは、サーフロックに人気があり、日曜日の朝ごとには町中でコンサートがあった。とても変に思われるが、そんな賑やかな音楽が早朝に町中の劇場で演奏されるというのは! でもリマのティーンエージャーにとっては特別であった。
? (Los Saicos-Demolición)
   (Los Incas Modernos-Campos Verdes)
  (Los Yorks-Abrázame baby)
エンリケも自分のバンドでサーフロックを試みた。しかし1968年に、彼の気まぐれなひらめきから、クンビアと呼ばれるトロピカルリズムを始めた。それはクリオジョでもなく、子供のころ母から聞いたワイノでもなく、いままでに演奏されたことのないサイケデリックミュージックだった。
? (Los Destellos-Que Chola Tan Rica)

※クンビアのリズム・・・・

「1969年は、よいシンガーに出合った年だった。グレート・マルチネス、プリマベラ・ツリステ、イザベル・イザベル そして、歌を神聖化したエルサ。」
 ロス・デステジョスは、政治的に不安定であったペルーを背景に、強烈なインパクトがあった。1968年、無血クーデターで民主的に選ばれた大統領に代わりファン・ベラスコ・アルバラドが軍事政権を率いた。ベラスコの左翼軍事政権は、少数の富豪によって経営されていたアシエンダを解体することによって何百万ものアンデス農民を奴隷状態にした。評論家は、ベラスコの西洋資本主義に対する嫌悪の叫びが、芽が出始めたペルーのロックシーンを殺し、人々にブルジョワ・ロックバンドに背を向けさせた。
 これはまだ議論の段階だが、エンリケとそのバンドは文化新興運動グループを通して、その危機を切り抜けたようだ、というのもロス・ディステオスはギターサウンドで、軍事独裁政権に抑えられ静かであるはずの人気のあるラジオ放送番組を活気づけた。
 当然、そのロス・デステジョスに勇気づけられ、多くのバンドが現れてきた。 ロス・エコースも、その一つだ。
. ? (Los Ecos / peligrosa.) (Los Diablos Rojos-Noche Hamenca)
 彼らのアルバムカバーを見れば、この頃の流行がわかるだろう。

第二部 La Selva (Jungle)

 このサイケデリッククンビアの物語を続けるには、首都リマを離れて500マイル程、東の山脈を越えて、50年前には木を削ったカヌーと川沿いの家々、それから草で作ったスカートをはいている、といった生活を想像させるアマゾン雨林地帯にいかなければならない。
 しかし、当時そこでは既に多くの製材所とにわか景気の石油産業があった。リマで流行したサイケデリック・クンビアを背景にして、明白に臭いの違うアマゾンのクンビアがあった。
 フアン・フアン・ポポリツシオ は 1,946年にアマゾニア・シティのプカルパに生まれた。彼の父は、煉瓦職人でチャイニーズ・ペルー人だった。仕事の終わった夕べにバンドを楽しんでいた。プカルパは1960年代には辺境の町であったが、たくさんの音楽が持ち込まれた。 一つに カリンボのクンビア、それはブラジルからAM ラジオで聞くことが出来た。
 ? (Pinduca- Carimbó e Sirinmbó)  Carimbo-Karimbo?
 サーフ音楽やロックンロールは労働者によってもたらされたが、町その周辺には土着のシビポの人たちの文化があった。
60年代後半、フアンは父からバンドを受け継いだ。そして何か新しい事をしようと決めた。彼はエレクトリックピアノを弾き、ギター弾きを招き、新しく素晴らしいサウンドを作ろうと色んな音楽を取り入れた。
? (Juaneco y su Combo- Perdido en el espacio)
 バンドは名前を変えファネコ・イ・スコンボ (ファネコと彼のコンボ)と名乗り。シビポ・インデアンの伝統的な服装をし、クシュマス(首か飾り?映像参照)とフェザーを輪っかで飾り付けた。彼ら自身は混血だが、アマゾンの土着の民族出身ではない、しかしテェンバレス・プレイヤーのロゼンド・ヒダルゴが言うように、プカルパの典型的な服装、それは家でも来ている服装で、彼らの地元を誇りにした。
 彼らは違う側面の文化も受け入れた。それはアヤウアスカ という幻覚を伴うお茶で、彼らは1972年にアヤウアスカが漂う曲を録音している。
? (Juaneco y su combo- Vascilando con Ayahuasca) (Floating with Ayahuasca/ アヤウアスカに浮かんで)
 神話ではあるが、エル・ブルホ(魔術のドクター)として知られるギタリスト ノエ・ファチンは、いつもそのお茶を嗜み、アイデアを得ていたと伝わる。
  それは彼らを伝統的なアマゾンの人々と都会の聴衆を振り分ける、マーケティング用の作り話かもしれないが、ファネコ・イ・スコンボは彼らが求めたジャングル地域でも大変人気があった。
 70年代初期、彼らはボートか飛行機でしか行けない、プカルパから500マイル離れた小さな町イキトに招待された。
 「私たちがイキトに着いたときは雨だった。しかし、私たちを迎えた人たちはバナーを持って “ウエルカム ファネコと彼のバンド”と叫び、空港から離れなかった。彼らは ちょっと我々の髪の毛を触るだけで、幸せだった。夜のコンサートの騒動の中で、我々は“アヤウアスカに浮かんで”という曲を演奏し始めた。少女たちは衣服を脱ぎ始め、下着を我々に投げ始めた。ブラジャー・・・・が私の足元に落ちたが、それを投げ捨て演奏を続けた。」
 イキトが孤立した町であるとは言え、当時の人口は100.000人だった。それでも盛んな音楽シーンがあった。
 ロス・ウェムブラーズは、ブラジル音楽のカリムボからビートルズまで、色んな音楽を聞いて育ったサンチェス・ファミリーの五人の兄弟で構成される。
 事実、ウェムブラーズという名前はロンドンのウェムブラーズ・スタジアムからきている。
 ファネコ・イ・スコンボと同じように、かれらの音楽は雨林の神秘主義と石油産業の前途にある現実を盛り上げた。
? This is the dance. / Esta es la danza] (Los Wembler´s-La Danza Del Petrolero)
  (Los Wembler´s- Ikaro del Amor)
アヤウアスカの話はここまで。
 不幸なことにロス・ウェムブラーズがスタジオに入るには数年がかかった、その前に他のグループが、彼らの曲を録音した。サイケデリッククンビアで一番有名になったロス・ミルロス。
? (Los Mirlos-Sonido Amazonic)
 エレクトリック・クンビアがペルーを席巻したようだが、実際のところリマではもっとも劇的な展開が始まっていた。
(宣伝)
 すでに述べたが、この時期のペルーは長い間の社会的大変動に呑み込まれていた。奴隷状態で漂う多くの土着の農民を抱えていた、富豪の経営する巨大なアシエンダが壊されてしまった。でもその過程は遅く見苦しく長いものだった。より良い暮らしを求めて、多くのアンデス農民は荷物をまとめリマに向かった。しかし、都市でよりよく暮らせる場所は見つからなかった。移住者たちは都市から離れた外周の砂漠に暮らし始めた。
「エル・サルバドール村ではたいしてすることはなかった、たいして見るものもなかった。掘っ立て小屋と砂漠、草木の欠片もなかった。」
 1975年のAP通信のエル・サルバドール村のドキュメンタリーによると、エル・サルバドール村は数々あるうちの一つのスラムで、1970年の地震で70.000人以上が死んだ北ペルーに存在したが、消えてしまった村々からの避難民が造ったと伝えている。比べてみることもなく、リマ市内でミドルクラス生活を快適に暮らす階級とスラムの状態は随分違うものだ。
「町というのは、行政サービス、電気、下水、適度に舗装された道があって当たり前。ニュースが伝えるには、その地所は恐ろしく安くかった。政府はローンで数カ月の内にあっちこっちの地所を買い上げた。しかし、敷地は人々で溢れ、電気はなく、下水も、現在に至ってない。」
   移住者たちは、多くの点でリマの当時の人口と異なっていた。彼らは違う料理を食べ、土着の言葉ケチュア語を話し、アンデスの伝統音楽ワイノを聞いた。
 ? (La Familia Rodriguez- El Alizal)
 しかし、移住者たちの子供たちは、トロピカル音楽、ロックンロール、そしてもちろんロス・デステジョスを聞いた。彼らが大きくなって、バンドをやり始めた時、メロディーはワイノ、それにエレキの即興、リズムは伝染的なクンビアを取り上げた。
  ? (Los Shapis-El Aguajal)
   こうやって、チィチャが生まれた。意識的な生な感情移入や、政治を除いたクンビア。そしてエイリアンの攻撃に使われたUFOの歌は、リマがよそ者に襲われた歌になった。
  ? (Loa Ovnis- Dos Caminos)
    ( Los Shapis.- Los Autenticos)
 1981年になると、それほどパンクロックの影響があったわけでもなく、ちょっと混乱するが、ロス・シャピズのアルバムカバーは、ラモーンズの完璧なコピーであった。しかし、それはその音楽の破壊的な輝きを表したものであった。
 1964年のある雑誌によると、  「チィチャは、疫病、悪徳、犯罪、家族離散、子供虐待、共産主義、過激主義、アナーキー、抵抗の中心であり進歩を認めないスラムではなく、リマの移住者たち以外の所で演奏された。」
 チィチャという言葉は伝統的のアンデスのコーンビールから派生したが、またそれは粗末な家を侮蔑的に表し、なおかつ下層移住者の生活に付随する、非熟練労働、服装、料理をも指している。
 たぶんチィチャの一番有名なミュージシャン ロレンゾ・パラシオ・キスペ またの名をチャカロンはこれらのステレオタイプに挑戦し取り込んだ。派手な衣装を金の鎖で飾り、飲んだくれて、悲しみを忘れようと唄った。
? (Chacalon y La Nueva Crema-por ella, la Botella)
 音楽リサーチャー ジョシュア・タッカーによると、 「男性主義を称え歌にし、聴衆に、悲しみに身をゆだねる弱みの許可を与えたチャカロンのチィチャは、多くの批判を浴びたが、チィチャを一つのジャンルとの認識を高めるのに貢献した。」
 しかし、他の歌では、彼は誇らしげに、移住者の町、そして多くの移住者のその決断力、ハードワークを歌った。
 ? (Chacalon y La nueva Crema- Soy provinciano)
   時代が変われば好みも変わる。
ファジー・ギター、ワウワウペダルで象徴されるサイケデリッククンビアは90年代になって、テクノ・クンビアにとって代わった。

 エンリケ・デルガド / ロス・デステジョスは1996年死去。その後、彼の妹の元でバンドは続いた。
ジャングル・クンビアのパイオニア、ファネコ・イ・スコンボ は1977年の飛行機事故で、メンバーの5人を失った。一方、陸を移動していたフロントマン フアン・ポポリシイオとティムバレス奏者のロセンド・ヒダルゴは命拾いをし、現在フアンの息子をリーダーに第三世代がバンドを率いている。
 ジャングルでのファネコ・イ・スコンボの好敵手であった、ロス・ウェムブラーズ、5人のサンチョス・ブラザーズは何年も地元で演奏続け、ヨーロッパ、USAへもツアーした。しかし、2020年 3人の兄弟をコロナで亡くした。
 最後にチィチャで最も有名なチャカロンは1994年に不幸にも糖尿病の合併症で亡くなった。42歳。彼は、リマの移住者のバリオでみんなに惜しまれた。葬式には70.000の人々が集まった。

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