中国於ける黒人奴隷。

イギリスの生化学者、科学史家である、ジョセフ・ニーダムは、彼の「中国の科学と文明」の中で、「中国とその周辺のアジアの国は、長い世紀に亘って黒人を使ってきた。彼らの奴隷の使い方は家庭内が中心で限られた中での慣行だったと書いている。(大西洋奴隷貿易による巨大なプランテーション労働力への輸入に比べると問題外であった。)
 唐王朝の年代記によると、724年、皇帝に捧げられた黒人少女のことが書かれ、9世紀のにも同じ様な事が記載されている。宗王朝の年代記では、976年アラビア人の商人が宮廷に、「引っ込んだ目をした黒いクンルンの奴隷と、黒人少年」を連れてきた。そして、12世紀に入ると、黒人奴隷の数は増えた。
※クンルン
 1119年、宗王朝時代の学者 Chu Yuは「広東の金持ち達のほとんどは、力持ちで、50㎏ぐらいは担げる奴隷を持っている。彼らの言葉は分からないが、正確は単純で逃げない。彼らは「野生」と呼ばれ、彼らの肌は中国の墨のように黒く、唇は赤く、歯は白く、髪の毛は縮んでいて、黄色い。男も女もいて、海の向こうの島に住んでいるそうだ。」と書いている。
 広東は主な輸入港で流通の中心でもあった。間違いなく黒人奴隷はその他の町にも流通したが、多くは広東に留まった。広東から始まりあちらこちらに広まった流行は、黒人奴隷を門番として雇うことだった。そして彼らは、ホームシックから悲しそうに見えたと伝えられている。多くの黒人たちの子孫がつまらない仕事をだけを受け継いだわけではなかった。サンフランシスコのアジア美術館には、14世紀に書かれた彼の衣装、態度から明らかに高い地位にあった黒人の絵がある。
 Chan Ju-kuという物書きは、1226年、彼の書き物のなかでアフリカ奴隷について、こう書いた。「食べ物でそそのかされ捕まり、ペンバ島(ザンジバル諸島)から奴隷としてアラブの国に連れ去られ、そこでは高い金額で売れた。」これは、この手の交易はムスリムアラブの商人によって、特別に中国の市場向に行われた。
 アラブ人の船乗りたちはインド洋で活発に活動していた。11世紀中頃、アラブ人の地理学者 Al-Mas’udiは奴隷、象牙、鉄 その貿易について、「中国、ペルシャからの陶器との交換で、モガディシュ、ペンバ島から輸出された。」と書いている。
 雲南省出身のムスリム(彼の父はメッカへの巡礼を果たした)であり、宦官で提督の Chêng Ho は、七度に及ぶ海軍遠征をした。その最初は1405-7年だったが、 四度目の遠征、1413-15年にはムスリムの通訳を連れて、Hormus,とペルシャ湾を探検し、その後の三度、1427-19,1421-22,1431-33年には、モガディシュ、Malinda(Malindi)を含むアフリカ東海岸を探検した。
 Li-tai Thung Chien Chi Lan (Essentials of History) の編集者であるLi His-Hsiungは、1767年に「Chêng Ho は、少なくとも7つの大使館の管理を委任され、何度も外国の族長を捕虜にした。と同時に中国の商品の利益に魅された色々な人々と貿易を目的とした相互の交流を拡げた。そして途切れることなく行き来した。」と書いている。 12世から16世紀初めかけて、ポルトガル人が彼らにとって変わったころ、ペルシャ湾、アラビア、ムスリムのインド人たちはブローカーとしてインド洋貿易支配した。東アフリカ沿岸の小さな貿易の町は重要な商人の町になり、それらの町の一つであるタンガニーカ のサンゴの島のSongo Mnara palace city から、ペルシャからの壊れたガラスの器、ビルマやサイアム(タイ)からの炻器、紅玉髄の欠片、琥珀、水晶、トパス、そして、宗朝から明朝にかけての膨大な磁器が見つかった。アフリカの象牙が中国で必要だったように、巨大な磁器の取引の中で、奴隷は少なくともその一部また、全体の取引に関係していただろう。
※ Songo Mnara
17世紀の前半には、ポルトガルはインド洋の貿易ルート、スワヒリ語を話すムスリムの商人が収める主な商業の町、アフリカの東海岸に沿って、栄えていた象牙と奴隷の交易を失った。1637年から1810年にかけてのその遺跡がもたらすものは、「大量の中国の青や白の磁器」だった。しかし、象牙と同じように黒人奴隷がこの交易に含まれていたのかは、議論の余地があるだろうが、可能性としてそのように大量の磁器を購入するというは、複雑な交易の構成の中では単純な一部だったといえる。ムスリムの商人たちは、貴重な金属、それに関する硬貨鋳造による支払により、商品の地域による特殊な不均衡に考慮することなく売り買いをしていたと思われる。
 そしてもう一つ黒人奴隷と中国についての一面がある。中国の民話によると、アフリカ人は非常に力強くて、やりくり上手であるとの信用があった。とくに彼らは例外的な深さまで潜れると世に知られていた。実際に彼らは海の中で船の継ぎ目を塞ぐことに慣れていた。Chu Fuの父 は11世紀広東で商船の管理をしていた。 Chu Yu は Phing Chou Kho Than (Table Talk at Phingchow)を書いた。その中で当時の船乗りたちの所見を取り上げた。 「船が突然水漏れし出した時、船乗りたちは中から修理出来なかった。それで、外国のとても黒い肌の色をした奴隷に’のみ’と’まいはだ’を持たし、海に潜って修理するように命じた、彼らは泳ぎの名人で、水の中でも目を閉じる事はなかった。」
そして、日本に来た「弥助」

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